プロフィールにかえて


学生時代の私にとって 最大のテーマは「発声」だった
 寝ても覚めても頭にあって、寸暇を惜しんで、人前でもはばかることなく、発声のトレーニングをしていた私は、学友の間でも変わり者として通っていた。持ち前の喉の強さが幸いして大事に至らなかったものの、声帯炎を患って、声の出せない日々を過ごした体験から、「いかに喉に負担をかけない発声をするか」を必死に模索していた。
 卒業後も模索は続き、フスラーの系統の発声法に一つの解答の糸口を見出す。

29歳で初のリサイタルを行なう
 私は、音楽の道での、いわゆるエリートコースを歩んできていない。そんな私を「30までに何か形を残さなくては、この先、歌を続けていけない」といった焦りと思い込みが襲っていた。当時の力では、リサイタルなど到底開ける状況ではなかったが、師事していた先生のご指導、まわりの理解と協力、そして自らの気力によって歌いきった。当時、思い入れの強かった日本語の歌と、師の勧めによるドイツ・リート、半々のプログラムだった。自分の想いとは裏腹に、日本語の発音・発声のクセが指摘され、むしろリートの方が評判が良かった。
 その日を境に、コンサートで日本語の歌を歌うことを封印した。発音・発声に明確な解答が得られるまでは、思い入れだけで歌うことは危険と判断したのだ。
 以降、15年程にわたって、ドイツ・リートが私の最愛の友となる。(もちろん、今も愛する友であることは変わらないが、以前のようにそれしか見えないという関係とは少し異なる。)シューベルト、シューマン、ブラームス・・・と学ぶうちに、私を虜にしたのはフーゴー・ヴォルフだった。思えば、最初のリサイタルにも、すでに採り上げていたのだが。

1993年に2回目のリサイタルを行なう
「ウィーン世紀末を歌う」と題し、ヴォルフ、ツェムリンスキー、シェーンベルク、ベルクという大胆なプログラム。当時は、アール・ヌヴォやアール・デコに関心があり、よく美術館にも出かけていた。この世界に入り込んでいたと言えるだろう。

1995年に大きな転機を迎える
 構想から3年の月日を経て、住居併設のホール、フリューゲル・ザールを開館させたのだ。一つの夢が形となって、こうして現実のものとなった。ホール建設にまつわるエピソードは別の機会に譲るとして、ここでは私の歌とホールの関係を少しお話したい。
 ホールは、私にとっては毎日の練習場であり、生徒のレッスン場であり、そして時に演奏会場となる。歌い手にとって理想的な環境の下、日々練習できるのは、大きなことである。いくつもの夢を見、時には挫折し、そして、この年になって今なお、新たな夢を追いかけていられるのは、きっとこの空間のおかげだろう。
 そして私は、このホールならではの企画を練り、自ら演奏するという幸福に恵まれた。特にヴォルフのシリーズには心血を注いだ。演奏とお話でヴォルフの歌曲を紹介する企画を、2000年から足掛け4年、6回にわたって行なった。様々な批判を受けながらもこのようなマニアックな企画を何とか続けられたのは、このホールがあったからこそである。私は、自分が本当に歌いたい作品に取り組み、自分の音楽的信条を貫いていた。何という幸せ者だろう!

2003年 全ヴォルフによるリサイタルを
東京オペラシティ・リサイタルホールにて行なう

 燃焼しきった。そして、その後に残ったものは・・・大きなツケ。
つまり、4年もの間、お客様のことを二の次にし、自分のコンセプトをひたすら追求してきた結果、お客様離れ、赤字の累積、それよりも何よりも、精神的に追い詰められて、路線変更することを余儀なくされたのである。

2004年 ヴォルフから180度転換して
イタリア・オペラを中心とするジョイント・コンサートを行なう

 運営上の問題もあったが、ヴォルフの世界で燃焼しきってしまった私にとって、全く違うジャンルに飛び込んだのも、当然の成り行きだったかもしれない。結果、満席のお客様。生まれて初めて赤字を出さないコンサートができた。企画の意図は成功だった。

2005年1月 「モーツァルトに恋して」と題したコンサートを行なう
 しかし、その喜びも束の間、私は新たな葛藤に悩むこととなる。イタリア・オペラはとても評判が良く、私に合っているというお声さえいただいたのだが、内なる声に耳を傾けると、やはり、イタリアものを歌うことにしっくりきていない自分がいる。
 そんな日々、気がつくと、私の心にすーっと入っていたのがモーツァルトだった。モーツァルトは、音楽に携わる者にとって聖域。私も長い間、近寄ることさえできずにいた。しかし、足を踏み入れてみると、意外にも冷たくされはしない感触。モーツァルトへの取り組みは、ヴォルフという一方の極からイタリア・オペラというもう一方の極まで振り切れてしまった針を真ん中に戻す作業だった。実に幸せな。

フランス語を学び フランス歌曲を歌う
 この年、もう一つ新しい挑戦を行なった。フランス歌曲は、長い間私の憧れだった。1曲も歌えないのに、20年以上も前から、スゼーとアメリンクのフォーレ全集は持っていた。おまけに、フォーレ後期の代表作「優しき歌」の楽譜まで持っており、先日、何気なくページをめくってみたら、驚いたことに何曲かは発音の書き込みがしてあるのだ。しかし、学ぶ環境が整っていなかったことを口実にした自らの怠慢のせいで、フランス語やフランス歌曲を学ぶに至らず、ずっと遠い存在だった。
 40代半ばで新しく語学を学ぶのも勇気が要ったが、とにかく飛び込み、マイペースながら続いている。歌曲も、ドイツ・リートを始めた頃に較べれば格段にスムーズだ。
 今後どのような展開になるか、それは未知数である。いつも新しい可能性を追い求めて歩んでいきたい。
2006年2月3日


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